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図書新聞経済時評1998.9.

 

市場のカオスを生きる

――いま求められる経済倫理

 

橋本努

 

 ジェイン・ジェイコブズの好著、『市場の倫理 統治の倫理』(香西泰訳、日本経済新聞社、一九九八年)は、人間社会が存続するために必要な二組の道徳律を、それぞれ十五個の命題に要約している点で興味深い。一方の道徳律、すなわち「市場の倫理」とは、暴力を締め出せ/自発的に合意せよ/正直たれ/他人や外国人とも気安く協力せよ/競争せよ/契約尊重/創意工夫の発揮/新規・発明を取り入れよ/効率を高めよ/快適と便利さの向上/目的のために異説を唱えよ/生産的目的に投資せよ/勤勉なれ/節倹たれ/楽観せよ、である。これらは、古典的ブルジョアの美徳と同じものだとされる。

 これに対して他方の道徳律、すなわち「統治の倫理」とは、取引を避けよ/勇敢であれ/規律遵守/伝統遵守/位階尊重/忠実たれ/復讐せよ/目的のためには欺け/余暇を豊かに使え/見栄を張れ/気前よく施せ/剛健たれ/運命甘受/名誉を尊べ、である。これらは、取引ではなく領土に発する道徳である。

 「市場の倫理」は、ビジネスと科学者の倫理であり、「統治の倫理」は、軍隊・警察・貴族・地主・官僚・独占企業・政治家の倫理である。これ以外に第三の道徳、すなわち共産主義の倫理を構想してみることもできよう。しかしジェイコブズによれば、そうした試みはマフィアと同様、二つの倫理を「混合」したものであり、腐敗せざるを得ない。社会システムの存続は、これら二つの倫理を独立して共生させ、相互腐敗を防ぐことにかかっている。

 しかし実際、医者や弁護士や農夫や芸術家などは、二つの倫理を混合した職業である。また、戦後日本の護送船団方式も混合道徳の成功例であろう。ジェイコブズの議論が弱いのは、こうした混合倫理がなぜ成功したのかを説明していない点である。

 もちろん、日本経済は混合倫理によって成功したとはいえ、現在必要なのは、市場の倫理を徹底させることである。中谷巌著『日本経済「混沌」からの出発』(日本経済新聞社、一九九八年)は、市場倫理の問題について一層具体的な理念を与えている。すなわち、仕切られた競争から大競争時代への転換は、いわば「町内会運動会」から「オリンピック」へと競争倫理を転換することだというのである。

 町内会運動会では、誰がどの程度の実力を持っているかあらかじめ分かっており、万能な人は多くの競技に勝つことができる。また、ビリになっても排除されず、よく頑張ったと褒めてもらえるような共同性がそこにはある。これに対してオリンピック競技では、オールラウンド・プレーヤーは通用しない。各人は明確に出場種目を限定して、徹底的にトレーニングしなければならない。今後の経済社会においては、オリンピック競技の下でグローバルに活躍する勝ち組と、ローカルなマーケットで細々と生き残ろうとする負け組とに、業界は二分されるだろう。実際、アメリカでは二〇年前に比べて、実質的な生活水準が上がった人は全体の二〇%にすぎず、その他の社会層とのあいだで二極分化が進んでいる。中谷氏によれば、日本もまたこうしたアメリカを真似るべきであり、そのために必要な構造変革は「オーガナイズド・ケイオス」、つまり「カオス」を意図的に作り出し、多様な実験の中から社会全体の成長を目指すことにあるという。

 ところが他方において中谷氏は、こうしたグローバリゼーションの動きが二〇一〇年頃までしか続かないだろうと予測する。それ以降になると、過度の二極分化によって社会不安が高まり、野放図な自由競争は続けられないだろうからである。

 しかしどうであろうか。グローバリゼーションを推進しつつ、他方でそのような構造改革が約一〇年後には無効になると主張することは、オリンピック型の市場倫理を過渡期的なものとみなすことになる。これは、倫理の調整コストを軽視した認識ではあるまいか。戦後日本のシステムを大転換すべきだというのであれば、それと同じくらい長い期間を展望して倫理の問題を考えるべきだろう。中谷氏の提言するカオス化には基本的に賛成であるが、しかしその倫理的位置づけには疑問である。市場のカオスを生きるための倫理は、今後、長期的に陶冶すべきものとして捉えたい。

(経済思想)